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歴史を体感
>>花の窟-世界遺産-
お綱かけ神事
(三重県指定無形民俗文化財)
JR熊野市駅から:車で国道42号を有馬町方面へ 約5分
花の窟

花の窟は720年(奈良時代)に記された日本最初の歴史書である『日本書紀』の神代第一で「国産みの舞台」として登場しています。この地は熊野三山信仰に先立つ古代からの聖地「窟の熊野」として重要な意味を持っており、まさに日本人のルーツといえる場所です。歴史書には花の窟から御神宝を本宮大社へ移したことが書かれています。
日本書紀に記されている事柄(参考資料のとおり)そのままに、今も毎年2月2日と10月2日には、例大祭が行われ、多くの方が参拝に訪れます。

◇参考資料
『日本書紀 巻第一 神代(かみよ) 上』−現代語訳
一書はいう、伊弉冉尊(イザナミノミコト)は、火の神(カグツチノカミ)を生むときに、やけどして死んだ。それで紀伊の国熊野の有馬村に葬った。
この地の民俗は、この神の魂を祭るのに、花どきにはその花をもって祭り、また鼓、笛をならし、幡、旗をたてて、歌舞して祭るのである。
◇さらに分かりやすく、漫画で見る「神話をつなぐ岩」を用意しております。
>>鉱山資料館
JR熊野市駅から:車で国道42号を有馬町から国道311号を紀和町方面へ 約30分
鉱山資料館
紀和町の鉱山の歴史は古く奈良時代、東大寺の大仏が造られた時も紀州地方から多くの銅が献上されたと言われています。
昭和53年に閉山したこの鉱山の歴史を紹介しており、採掘場の再現、竪坑を地底深く下りる疑似体験ができるエレベーターなど、当時をリアルに再現したユニークな資料館です。

開館時間:午前9時〜午後5時
休館日:毎週月曜日(但し、月曜日が祝日の場合は翌平日休み)
      12月29日〜1月3日
入館料:大人300円   小・中学生100円
      団体割引:20名以上半額
      身体障がい者と付き添いの方1名半額
TEL:0597-97-1000

>>鉱山資料館ホームページ
>>赤木城跡
JR熊野市駅から:車で国道42号を有馬町から国道311号を紀和町方面へ 約30分
赤木嬢跡

天正年間、藤堂高虎が築城したと言われています。
中世と近世の築城法を併用した平山城は今も築城当時の原形を残し、城跡は全国でも少なく貴重です。

>>赤木城について詳しくはこちら
>>徐福(じょふく)の宮
JR熊野市駅から:車で国道42号を大泊方面へ 国道311号を波田須方面へ 約30分
徐福の宮
矢賀の蓬莱山、別称、丸山に徐福の墓が祀られています。
今から約2200年前、秦の始皇帝の命により徐福は蓬莱山にあるといわれる不老不死の仙薬を求めて、500艘の船団を組み東方に向かって船出しました。途中台風に遭い徐福の船だけが、この地矢賀の里に流れ着いたと言われています。
帰国を断念した徐福は紀州への永住を決意し、やがて窯を設け、焼物を3人に教えたと言います。今も残る窯所、窯屋敷という地名はこのことを伝えています。
この他、徐福は土木、農耕、捕鯨、医薬などの中国文明を里人に教えたといわれています。このことからこの地は秦住と呼ばれ、後に波田須という地名になったと言われています。
天台烏薬徐福の墓の石碑は、稲荷神社と合資されている小祠の後にあります。御神宝は直径20cm余りの小さな摺鉢です。また、不老不死の仙薬こそ当地に自生する天台烏薬だとされています。

>>人物史(神話・伝説)
※日本書紀は、古事記より8年後の720年に編纂された日本で二番目に古い歴史書です。
日本書紀には有馬と荒坂の市内の2つの地名が記されており、今も行われている2月2日と10月2日の「花の窟のまつり」と11月3日の「二木島祭」の起源が理解できます。神話や伝説が今も、史跡や文化、行事など人々の営みの中に生きています。
◆イザナミノミコト
一書はいう−イザナミ尊は、火の神を生むときに、やけどをして死んだ。それで紀伊の国熊野の有馬村に葬りました。この地の民俗は、この神の魂を祭るのに、花どきにはその花をもって祭り、また鼓、笛をならし、幡、旗をたてて、歌舞して祭ります。
【現代訳】(日本書紀 巻一、神代上一)
神武天皇(じんむてんのう)
とうとう狭野(新宮市佐野)を越えて、熊野の神邑に着き、天磐盾に登った。
そこで軍をひきい、だんだんに進んだ。海の中でにわかに突風にあい、皇舟は漂流した。このとき稲飯命が嘆いていった。「ああ、わが祖は天神で、母は海神なのに、どうして私を陸で苦しめ、また海で苦しめるのか」言い終ると、すぐ剣を抜き海に入って剣持神となった。三毛入野命もまた恨んで、「わが母と叔母(豊王姫)は二人とも海神である。どうして波を起して溺れさせるのか」といい、すぐに波の穂をふんで、常世の郷に行った。
四人兄弟の中で天皇ひとり、皇子手研耳命と、軍をひきいて進み、熊野の荒坂の港に到着した。そして丹敷戸畔という者を殺した。
【現代訳】(日本書紀 巻三日本磐余彦天皇≪神武≫)
◆坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)
平安時代桓武天皇の頃、将軍坂上田村麻呂はこの地に隠れ、海を荒らしまわって鬼と恐れられた海賊・多娥丸の征伐を命じられました。
近くの烏帽子山に大馬権現の化身の天女が現れ、鬼の隠れ家(現在の鬼ヶ城)を教えたが岩が厳しくそびえ、磯は波が激しくとても立ち寄れませんでした。その時、沖の魔見ケ島に童子が現れ、舞い唄い、軍勢も加わって大騒ぎをしました。鬼神が油断をして岩戸を開く一瞬に、将軍が神通の矢を放ち、見事一矢でしとめました。童子は光を放って北の峰に飛び去ったので後を追って行くと、紫雲たなびき、芳香に満ちた洞窟(清滝の上流)があり、守仏の千手観音を納め安置しました。
◆竹原八郎(たけはらはちろう)
元弘元年(1331)後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒すため挙兵しました。天皇の皇子である護良親王も駆けつけたが失敗に終わり、天皇は隠岐島に流され、親王は熊野に逃れました。そのとき親王を自分の館に迎えたと伝えられるのが、竹原八郎です。
親王は令旨(手紙)を全国に発して倒幕に奔走しました。その結果鎌倉募府は滅亡し、建武の中興が始まりました。
竹原八郎もその殊勲者の一人で、伊勢方面に進出し幕府方の守護代や地頭を襲撃するなどのめざましい働きをしたと言われています。
光厳天皇の日記である「光厳院宸記」の元弘2年(1332)6月29日の記事に「地額両三人討チ取ラレ、守護代宿所焼キオハラル。コレ熊野山ヨリ、大塔宮(護良親王のこと)ノ令旨ヲ帯ビ、竹原八郎入道、大将軍トナリ襲来。」とあり、八郎の活躍ぶりが記されています。
竹原八郎のその後の消息は明らかではありませんが、この働きで大正6年(1916)に正四位の位階を与えられています。
市内神川町花知にある屋敷跡は、東西40m、南北44m、幅8mの土塁と深さ6mの空堀があります。この地方唯一の南北朝時代の遺構で貴重なものです。
◆増基法師(ぞうきほうし)
◆有馬和泉守忠親
◆鈴木孫一(雑賀水軍)
◆近藤兵衛(天狗鍛冶)
◆橘南渓
◆吉田庄太夫
◆田本研造

>>文化財
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